奈良大和歴史館の講座は、従来の定説を見直し新説を提言するものです。
現地を直に歩くことにより歴史認識を高め、奈良の魅力を肌で感じてもらえます。

奈良大和歴史館

「奈良公園と興福寺」

「奈良公園と明治維新期の興福寺」
    ― 奈良公園ができた理由(わけ) ―

内 容

「奈良公園の明治13年開設以前の姿はなにだったのか」ご存知ですか。
講演と奈良公園ウォークで堅苦しくなく、鹿の遊ぶ奈良公園がいかにしてできたのかを検証しましよう。

 下の問と答えの○○は何でしょう。

  • 問1:奈良公園は明治13年2月に開設しますが、それ以前は何だったのでしょう。  |回答 [表示 | 非表示]
    問1答:「ほとんどが興福寺の境内」でした。
  • 問2:それではなぜ○○寺の○○が公共用地になったのでしょう。  |回答 [表示 | 非表示]
    問2答:明治4年2月に上知令により没収されたからです。
  • 問3:しかし、なぜ上知令により没収されたのでしょう。  |回答 [表示 | 非表示]
    問3答:寺院としては日本一といって過言でない格式と寺勢があった興福寺ですが、明治初年に廃寺となったからです。
  • 問4:格式と勢力があった○○寺が何故廃寺となったのでしょう。  |回答 [表示 | 非表示]
    問4答:慶応4年(1868)(明治元年)3月 明治維新政府が出した神仏分離令に、興福寺僧が出さなくても良い復飾願い(僧を辞める願い)を維新政府に提出(一山同時ではないが)して、全僧が神仏習合で興福寺と一体化していた春日社の新神司(神主)になったからです。
  • 問5:何故、○○寺僧が出さなくても良い復飾願いを提出したのでしょう。  |回答 [表示 | 非表示]
    問5答:これまで、よく調べもしないで多くの本に「何の信仰もなく一山の僧は争って僧職を辞した」と書かれていますが、実態は決してそのような単純なことではありません。

 今まで、誰も詳細に説明しなかったことを、奈良大和歴史館で説明を致します。 少しだけ簡単に理由を言えば、一つは維新政府との緊密な関係です。第二には、その緊密な関係を理解するには○○寺僧の位格と職掌が分からなくてはなりません。第三に○○寺組織の支配系統が絡むことです。総合的な分析が必要で分かりやすく解説致します。

奈良公園ウォーク
 今まであまり知られてない○○寺の明治維新期の動向を知って頂いてから、中心伽藍だけでなく100近くあった子院子坊(塔頭)跡の面影が残る奈良公園を、現地散策すればただの都市公園でないことが理解できるでしょう。

 このように、講座は従来の定説を見直し新説を提言するもので、現地を直に歩くことにより歴史認識を高め、奈良の魅力を肌で感じてもらおうと企画したものです。
 また、指定開催日は1人の参加者でも開催いたしますのでお気軽にお申し込み下さい。

 講演と現地散策の詳細及び日程案内


左:大乗院門跡の碑  右:現在大乗院跡の高台(鬼園山ギヲンヤマ)に奈良ホテルが建っている

かつて、大乗院の高台にあった観音堂は桜井市妙要寺に移築されて妙見堂となっている。
外観の気品高い美しさには見惚れてしまう。内部の格天井の美しさにも息を飲んでしまう。


左:今も土塀が残る知足坊跡  中:泉橋寺(木津川市)に移築さた知足坊の門  右:最勝院跡の門

「平城京と泉津を結ぶ道」

「藤原京・平城京と泉津を結ぶ上津道・中津道・下津道」
 ― 平城京の都市計画は泉津からの幹線道路と一体か ―

内 容

 これまで、藤原京と平城京を繋ぐ上ツ道・中ツ道・下ツ道の研究は、藤原京と平城京の関連を説き大和盆地内だけを通る道と想定し、多岐におよぶ体系的な内容の研究が行われているが、3道の北の起点の位置は平城京であるとの考えが定説となっている。
 ところが、平城京を北の起点とするのであれば、藤原京(694)を造営したとき平城京(710)に当たる場所は当然平城京では無く、道路設置目的に適う合理的な設置理由の説明がなされていない。明確な説明ができない以上、平城京の北約6キロにある木津川の大河川港「泉津(いずみのつ)」を終着点にした方が、説得力がある。
 すなわち、三道の設置目的が人の移動や物資の輸送とするのであれば、泉津からの三道設置目的は極めて明瞭で合理的な説明ができるからである。泉津は全国から都城に送られてくる物資の集積地であり、物流ルート(瀬戸内海・淀川ルート、桂川ルート、琵琶湖・宇治川ルート、木津川上流ルート等々)の要の役割を果たす大河川港である。
 このことから、上ツ道・中ツ道・下ツ道は藤原京と平城京間の範囲ではなく、藤原京と泉津間に設置した道路で北の起点は泉津であると解釈できる。
 それ故、平城京から泉津(上津・中津・下津)間の三道のルート復元を行うとともに、泉津の上津・中津・下津の各範囲の復元を行い、その上で平城京の都市計画が、泉津からの幹線道路と一体になって造営したものではないかとの考えや、恭仁京の右京の坊制を考証するものである。

古代上津道(中世奈良街道)を泉津までウォーク
 平城京七坊大路(県庁東側)から古代の上津道を泉津に向かって歩きます。木津で中津道と合流しますが、なぜ古代道路の上津道と中津道が合流するルートが中世奈良街道になったのでしょう。
 これも中世の興福寺が無視できません。中世の泉木津(港)や上・下の渡しと木津氏(興福寺の衆徒)そして山城国1の中世城郭「鹿背山城(興福寺の城)」の話等々いろいろな角度から古代や中世の上津道と中津道、泉津の歴史的な解説しながら、楽しいウォークをします。(厳寒期と猛暑日は途中バスに乗車します)

 このように、講座は従来の定説を見直し新説を提言するもので、現地を直に歩くことにより歴史認識を高め、奈良の魅力を肌で感じてもらおうと企画したものです。
 また、指定開催日は1人の参加者でも開催いたしますのでお気軽にお申し込み下さい。

 

図:従来の古代大和南北縦貫道
(日本の古代 第9巻 都城の生態 岸 俊男編 中央公論社)

平城京と泉津間の道の復元
三道の北の起点 岩井説「泉津と古代都城」
『古代文化』第62巻2号
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 講演と現地散策の詳細及び日程案内


カーブする木津川左岸に添って存在した大河川港「泉津」全体を望む

手前から上津・中津・下津(写真右端)。泉津はその総称である。

平城宮跡に復元された大極殿

藤原宮大極殿跡

「恭仁京の復元」

「2ツの謎を解明した恭仁京復元」
  ― 左京の大極殿設置問題と右京にあった泉津 ―

内 容

 聖武天皇は東国行幸の帰り道、平城京に帰らず思いついたように恭仁京(740)に遷都した。このためか、伝統的都城形態を逸脱し本来ないはずの左京(加茂)に大極殿を設置するという、変則的な京(みやこ)であるかのようにこれまで言われてきた。しかし、逸脱や変則的でもなく左右対象を重んじた矩形の都城で、平城京造営思想を重んじた都城造営理念に適った都市計画で造営していることが、新たに復元してみるとよくわかる。
 恭仁京の復元を行うとき、都城であるからには都城造営理念に沿った造営をしたと考えなければならないし、また、理論的数値から復元できたとしても自然地形と合致して、初めてその復元は信頼性を得るものと言える。この二つをクリアーしなければよりどころがなくなり、各々が自由奔放な「復元」を発案する結果となる。それでは、空想的になって合理的説明に基づく復元とは言えない。
 ここでは、定説である先行研究の矛盾や問題点をあぶりだしながら、都城造営理念に適い地形に合致する新たな「恭仁京の復元」案を提示するものである。
 その上で、左右京を分ける中心軸の賀世山(鹿背山)西路の比定、本来ないはずの左京(加茂)にある大極殿設置理由の説明、右京(木津)に存在する大河川港「泉津」と幹線道の上・中・下津道が為す恭仁京との関連の説明、また、令大尺か令小尺のいずれで造営しているのかを検証するとともに、平城京(710)から平安京(794)に変化する坊制が、中間期の京である恭仁京が過渡期の新坊制で造営していることを解説するものである。

恭仁京ウォーク
 宮はあったが京はなかった幻の都と揶揄されている恭仁京ですが、決してそうではありません。『続日本紀』には左・右京を分けた路は鹿背山西路(平城京では朱雀大路に当たる)であると記載しています。鹿背山西路に比定した場所やその北延長上にある木津川の上渡し、また泉津の上・中・下津道と恭仁京の条坊との関係を説明しながら現地を散策します。その上で、なぜ恭仁宮を左京に当たる加茂盆地に造営したのかを、鹿背山西路周辺の山や地形を見学して考え、上津地域をウォークします。その後、JRで移動し恭仁宮大極殿跡等をウォークします。

 このように、講座は従来の定説を見直し新説を提言するもので、現地を直に歩くことにより歴史認識を高め、奈良の魅力を肌で感じてもらおうと企画したものです。
 また、指定開催日は1人の参加者でも開催いたしますのでお気軽にお申し込み下さい。

 講演と現地散策の詳細及び日程案内


左:先行研究の恭仁京プラン復元図『日本古代地理研究』 足利健亮 大明堂
右:岩井説恭仁京の復元図『古代文化』第64巻第1号 岩井照芳 (財)古代学協会   右図を大きく表示する

 
      左:恭仁宮大極殿跡   右:この礎石は大極殿造営時から動いていない